lundi 19 mai 2008

安楽死

最近、フランスではシャンタル・セビルという女性の事件がきっかけとなり、安楽死に関するの議論が再開した。不治の病に罹り、おそろしい苦痛を我慢している人を故意に医者に死なせることは安楽死を指示しているという。ベルギーやオランダなどでは可能な行為だが、フランスではまだ禁止されている。では、何故フランスでの安楽死がまだ禁止されているか。安楽死は、果たしてどのような問題をもたらすのか。
安楽死について様々な意見があるのが、およそ賛成意見と反対意見があるだろう。さて、シャンタル・セビルという病人のように病気のせいで顔が極めて醜くなっていたが、死のうした理由はもちろん彼女の醜さではなく、日常的な耐えがたい苦しみであっただろう。このような人々の欲望はただ痛みを止めさせ、立派に死ぬことである。そして、自分の体の苦しみを最も分かる人は病人自身なので、権利の国では苦しんでいる病人が死ぬ欲望があれば、自分で選択すれば、死なせてもらった方が良いと言われている。この観点からすれば、安楽死は殺人も自殺とは異なり、愛の行いをすると主張されている。
しかし、安楽死に反対している人々は安楽死の許可が不可能だと思っている。第一、彼らにとって、安楽死はただ殺人で、法律や宗教に違反であるという。つまり、この権利を与えると、医者は神様のように誰が生きる、誰が死ぬのを決めることに過ぎないと言っている人までいる。そして、病人が明らかに決められない場合は医者が決める必要があるか、一概に客観的に決定できないと言われるため、医者にとっては、複雑な状態である。また、病人にとっては危険な状態だと思っている人もいる。つまり、病気で、自分で生きたいか、死にたいかを決めることができず、遺産を相続するために、医者が安楽死を与えるようにプレッシャーをかけるおそれがあるので、安楽死を合法化することは危険だと思われている。しかし、安楽死についての法を作り出し、きちんと範囲を限定することはできないのか。
ところで、私は安楽死を合法化したらいいと思っている。確かに、そうすれば、反対者の意見の通りに多様な問題をもたらす可能性がある。しかし、フランスという民主的な国として、現在の重病人に対する政府の態度は偽善的で、堪え難いものがある。例えば、クリスティヌ・ブタンというフランスの大臣がシャンタル・セビルの事件について、「彼女が醜いので、死にたい。だが、フランスでは許せないので、我慢するしかないだろう。」と言った。このような非常識で、浅いことを言って、 私はこれを聞いた時、共和国の大臣が発言する言葉とは思えず、 ショックを受けた。これを聞いて、つまりその人はシャンタル・セビルや彼女と同じように苦しんでいる人々の事を全く知らないか、何もしたくないか、と自問してもいいだろう。従って、政治の意志があれば、もちろん厳正で、はっきり限界のある法を規定するのは不可欠だが、ベルギーやオランダのように安楽死を規制することができるだろう。
実際、常に変わっている権利の社会ではこの社会の変化に適応しなくてはならないだろう。社会の変化を迎えることは確かに時間がかかるものだが、死刑制度が廃止されたようにきっと近い将来に安楽死は許可されるようになるはずだ。

少年犯罪

現代、殆どの国では技術、法律や人権などの問題が改善されているかたわら、教育が悪化しているとよく言われている。そして、特に先進諸国で青少年犯罪が増加していると指摘されている。そこで、「核家族化や都市化の進展が、10代の青少年の犯罪数の増加や犯罪の凶悪化の原因である」という意見があるが、本当に関係があるのだろうか。
さて、この見解を教育環境という観点から説明してみれば、様々な理由が見つかるだろう。とりあえず、何故核家族化や都市化の進展が青少年犯罪に影響があるという意見があるのだろうか。例えば田舎と比較すると、都市で育ている子供達の家族は大抵核家族である。つまり、両親と一緒に住んでいる。この家族制度は子供にとって、大家族から育ている子供達と違って、安定の少ない家族制度と言われている。と言えば、都会に住めば、両親が仕事で忙しくて、いなかったら、しつけや社会のルールを自分の家族の他の人からあまり教えてもらわないので、子供達が独習して、また友達と一緒に習うだろう。それに、両親がいる時、仕事のせいで自分の子供と一緒にあまりいないので、悪い事すると叱る訳ではなく、しばしば甘やかし過ぎるだろう。この子供達に規則を小さい頃から守らせないと、目安があまりなく、大きくなると、犯罪を犯してしまう可能性が高くなると思われている。だが、青少年の犯罪数の増加や犯罪の凶悪化は本当に核家族化や都市化の進展に原因がるのか。
ところで、青少年の犯罪数の増加や犯罪の凶悪化は確かであるのか。実際、この数が増えることが本当の犯罪数の増加を意味する訳ではないだろう。即ち、警察から記入された事件の増加だけではないのか。また、前よりこの犯罪が凶悪化したと言う人がいるが、近代のマスコミのおかげで、世界の向こう側に何かが起こると、直ぐこちらへ届くので、前より事件、特に犯罪の事件を意識しながら、マスコミから段々示すようになったと主張している。しかし、現代子供を放任する両親が増加している点では賛成する。前の世代と違って、今の親たちが子供の時彼らの親から厳格な教育を受けたので、自分の子供を甘やかそうとしている両親が段々見えるようになった。例えば、「Super Nanny」のような番組はこのような有様を示すだろう。この番組にいる家族は、ずっと小さい頃から自分の子供を甘やかしておい、八歳の頃になると、この子供達がわがままで、なにも尊重していなく、親がどうしてこうになったのか分からないで、子供をどう育てたら良いのかについて助けてもらう家族ばかりである。このため、家でルールを守らなくても犯罪を犯しがちな子供が増えるのは意外ではないだろう。
そのため、仮に10代の青少年の犯罪数が増加し、犯罪の凶悪化が進むのは核家族化や都市化の進展に限ったことではなく、両親から受けた教育にも原因があるだろう。そして、自分の総ての問題の原因は社会の変化にあるのではなく、人々が自分の責任をとれなくなったかのであろう。

環境問題

世界中には様々な問題が生じている。中東やアフリカの国々には戦争もあるし、貧乏もあるし、病気などもあるので、かなり厳しい生活を送っているだろう。ただ、最近、地球温暖化などのせいで国々のリーダーや一般的に人々は益々環境問題を問題化するようになった。つまり、人類は環境問題と正面から取り組まないとはいけないようになったのだろう。それでは、いかにすれば「地球にやさしく」できるのか。
ビートたけしの著書「みんな自分がわからない」によると、彼は「地球に優しく」の言葉はつまり「人間に一番都合のいい地球をつくる」ために、どうしたらいいかという意味がある。私はこれに賛成する。実際、ただゴミをわけたり、有機農の食物を食べるだけで、自分が「地球に優しくする」と思っている人が多い。しかし、彼らに「自分の消費を下げて」、また「車をできるだけ使わないで」という時、自分の生き方を変えず、「地球に優しく」したいという。つまり、それほど邪魔にならない生き方の変化なら、人々は自分の生き方を変えることは構わないが、不便だったら自発的に変えないはずだ。
しかし、ビートたけしが「自然がそんなによかったら、これほど人が東京に集中して出てこないんじゃないか」という時には賛成できない。人が大きい町に集中するきっかけは田舎よりの高い生活水準ではなく、仕事のせいではないのか。確かに、田舎には嫌な虫などいるが、なぜ田舎に住まないかというと、何よりも田舎にはあまり仕事がないからではないか。そして、これほど自然が良くなければ、田舎に別荘を買いたい人、また田舎に別荘がある人は少ないはずだろうが、実は選択の余地があれば絶対田舎に住むと思っている人も多いではないか。実際、大きいな町では大気、川、道さえ車の排気ガス、工場の化学製品や犬の糞などのせいで汚染され、ネズミもゴキブリもなどいて、そして大きい町はストレスが高い所なので、町は田舎よりいいとは思わない。だから、本当に「地球に優しく」することは、どのようなことなのか。
とりあえず、安楽に暮らしている人はこの心地よい条件を無くしたくないので、生活水準のレベルを維持しながらも、消費の仕方も変えるべきである。即ち、更新エネルギーやクリーンエネルギーを大規模に使用するようにした方が良いだろう。実際、天然資源がなくなりつつあり、そして現代使っている資源が汚染源で、地球温暖化に拍車をかけるので、天然資源が全部なくなるまで待たず、今から更新エネルギーに変えることが必要である。つまり、石油や原子力のような汚染する資源などの使用をやめておき、太陽や風のようなクリーンエネルギーを大規模に使おうとしたらいいと主張する。
そして、「地球にやさしく」するとは個人の責任だけではなく、社会、つまり世界の国々や企業も重責を担っている。確かに、国々や企業は更に発展するにつれ、この責任は重要になるが、このことからと言って、発展途上国や中小企業が何もしなくても良いことには限らない。実際、この問題はとても複雑で、人々が皆一緒に努力しなければ、解決できないだろう。だから、京都議定書のような国際条約は最も大事なのが、このような過程は現代より更に進まないとはいけない。温室効果ガスを減らす具体的な対策を本気で実施することは非常に重要なものである。
「ローマは一日にして成らず」と同じく一日ですべて変えられなく、それはもしかしたら空想的であるが、少しずつ、皆で努力し、力や意志を入れば、未来の子供達のために、また地球の総ての生物のためにいい世界が作れるだろう。

「大人になる」ことの目安

人間の間に見られる様々な違いのうち、一つは年齢の違いである。単純にいうと、一方では子供がいて、また他方では成人がいる。しかし、大人の人はどのような人なのか。また、どのように「大人になる」のか。
法律の点では成年に達すると、大人として見なされる。だが、国々によって、成年齢は変わるだろう。それに、ある国の中にも、成年の概念は歴史を通して変わる場合もある。例えば、現代フランスでは成人の年齢は1974年十八歳だったが、その前は21歳だった。そして、日本なら成年は20歳で、アメリカでは21歳である。法律に従って、成人になるとともに自分のことに対して責任がとれるようになる。即ち、刑法が適用される。しかし、一概に成人になるとは責任感があるという意味ではないだろう。ゆえに、成人と大人は違うのだ。
では、どのように「大人になる」のは決めることができるのか。これについては様々な意見があるだろう。しばしば、思春期が終わってから、大人になると思っている人が多い。特に、子供の時背が高くなったことで、成年に達したら、「大人になった」とよく思われている。例えば、私は子供の時十八歳になると、親の命令に従う必要がなくなったり、好きなように自分の生活を送ることのできたりすることが大人になることだと思っていた。だが、大きくなると、「大人になるということはやはり違う」と考えるようになった。
大人になるということは年齢だけの問題ではない。確かに、普通は年をとると、身体的に成長したり、意見や意識が変わったりするが、年をとるだけで大人になったのは言えない。実際、大人になるということは精神的な過程であると思う。即ち、自分のことばかりだけではなく、他人のことも客観的に考えるようになって、自分の意見ができ、自分のした事に対して責任をとることや責任感の意識があって、また社会に認められることが総て大人になる過程のものであると考えている。例えば、いつも他人に依存して、自分の問題を抱えることもできない、または自分で考えらない40歳の人は確かに成人だが、大人にまだなっていないということだ。つまり、幼稚な40歳の人より、成熟した16歳の人がいるはずだ。そして、完全な大人になるために、自立することは必要であるかも知れない。例えば、まだ親と同居している25歳の人は親から独立していないだろう。それに、パラサイト・シングルのように洗濯してもらったり、掃除してもらったり、甘えている25歳頃の人々はまだ子供のように親に依存しているから、成長もできないし、一人前になる可能性が少なくなる。
では、私はお金以外に親に依存していないで、日常生活を自分で送るので、自立心を感じている。しかし、それで一人前の男、つまり完全な大人になったとは言えるのだろうか。そして、金銭上の独立があっても、「大人になった」とは言えるだろうか。今こそ、私は大人になったとは考えていながら、十年後仕事があって、結婚したら、また子供がいれば、きっと「大人になる」ことの目安が変わるはずだ。つまり、確かに、述べたように、具体的な目安があるのが、大人になることの目安は具体的なものだけではなく、主観的なこともあると思う。

正しい言葉遣い

世界中、総ての国で言語の「正しい言葉遣い」ということがあるだろう。但し、この「正しい言葉遣い」とはきっと人々によって、意味や定義が変わるだろう。つまり、これは一概に言葉の正用という訳ではない。従って、これはどういうことだろうか。
さて、伝統主義者の意見によれば、言葉の正しい使い方は辞書に書いてある定義である。それは、大部分フランス語の保存と純化のためのアカデミー・フランセーズによって、辞書に新しい言葉の記入が決められているということである。つまり、伝統主義者にとって、「正しい言葉遣い」とは辞書の言葉の定義、また文法的に正しい慣用であるだろう。しかし、この見方は少し狭くて、言語の変化や流行語、また古い言葉の慣用の消滅をあまり考慮することなく、いわゆる「正しい言葉遣い」を一生懸命守ろうとしている。
言葉の意味や慣用は明白に年を通じて変化しているだろう。即ち、百年前と比較したら、ずいぶん変わってきた。確かに、周期的にアカデミー・フランセーズなどが新語や新しい言葉の使い方を認め、辞書に記入するが、記入される前には正式な言葉として認められていない。つまり、殆どの流行語や隠語とネット語などは公式の存在はない。しかし、日常の人間関係を通して、それは最も使われている言葉遣いであるだろう。例えば、フランスでの若者はよく「verslen」という逆語で会話する。簡単な例を挙げれば「merci」は「cimer」になり、また警察を親しい言葉で指定する「flic」の言葉は音も形も変わって、一見関係なさそうな「keuf」になる。また、ネット語なら、本当の言葉の書き方が消えて、短くするために音で書こうとする。例えば、フランス語の「salut, tu viens à la maison demain ?」はネット語で「slt, tu vi1 ala mézon 2m1 ?」になったり、英語の「I will see her tonight to talk about your problem」は「I’ll c her 2nite 2 tlk abt ur pb」になったり、字の音でどの言葉かが分かるようになる。
そして、言葉の誤用が正用として定着したもののなかに、外来語がある。確かに、元の意味を持って、使われている外来語もあるが、多くのものは意味
が異なっている。日本人は外来語を使用するのが好きで、色々な国から来ている言葉が日常的に用いられている。例えば、英語の「fork」はカタカナで「フォーク」で、元々の意味を持ち、ドイツ語の「arbeit」の場合は意味が異なる。実際、ドイツ語で「arbeit」は「仕事や働く」と言う意味で、日本語の「アルバイト」は「パートタイム」と言う意味を持つ。
このように、色々な言葉遣いがある以上、この使い方は正しい、これはだめとは 客観的に言えるのか。言語をならうため、また丁寧な言語ができるために規範に従うことはもちろん重要である以上、最も基本的なことは他の人間とコミュニケーションをすることではないのか。相手の気持ちや思想などを理解するのは言語の目標ではないのか。だから、その目的が達成できれば、それは「正しい言葉遣い」というものであるだろう。

samedi 5 janvier 2008

パラサイト・シングル

1. パラサイト・シングルは何ですか。
パラサイト・シングルは、20~30代ぐらいの年齢で、社会人になりながらも親と同居している独身者という日本の社会現象を指す。つまり、親と同居し、基礎的生活条件(例:食事、掃除、洗濯)を親に依存している未婚者である。この表現は、東京学芸大学助教授の山田昌弘氏によると、まず1997年の日本経済新聞で、そして彼の「パラサイト・シングルの時代」で作り出した。パラサイトは「寄生」という意味で、この言葉は「パラサイト・いヴ」の小説や映画の影響を受けた。
しかし、これは日本の現象だけではない。例えば、アメリカなら「boomerang generation」と言って、イタリアなら「 mammons」がいる。
とこらが、日本で行っている「ぱらサイト・シングル」のことはアメリカなどと比べたら、少し違う。とりあえず、日本のパラサイト・シングルは三つのタイプに分けることができる。
第一は高い収入をもらって、ほとんど自分のためにしか使わずに、基礎的生活条件を親に依存している。(=サラリマンやキャリアーマンなど)
第二はフリターである。
最後は家を出かけることはなく、コンピューターで遊んだりする日常生活を暮らしている引き篭もり。
しかし、日本ではパラサイト・シングルと言えば、またこの言葉を作り出した山田昌弘がパラサイト・シングルを使えば、第一のタイプを表しているので、今日はこのタイプについて話したいと思う。
2. 日本での統計
1980年、30歳から34歳の未婚者は、男性で21.5%、女性で9.1%だった。親と同居している男性は30%も満たなかった。
1995年、この率が高くなった。未婚の男性は37.3%になって、女性は19.7%だった。そして、親と同居している男性は50%を超えて、女性は70%と高かった。
1998年 (国立社会保障・人口問題研究所「第二回全国家庭動向調査」によると)、25歳から49歳の未婚者で親から経済的援助を受けている人の割合は、男性で30%、女性で40%となって、さらに、親に身の回りの世話をしてもらっている人の割合は、男性で52%、女性で73%にのぼった。
親元を離れる理由としては結婚が一番重要な契機になったので、未婚者の数とパラサイト・シングルの数と関係がある。
そして、2000年のNRI (National Resources Institute)の「生活者1万人アンケート調査」で、パラサイト・シングルの割合は、20代男性で81.8%、30代男性で78.5%、20代女性で88%、30代女性で65.1%となった。
現在、山田昌弘の推計によると、日本にいるパラサイト・シングルはほぼ千万人である。
3.どうしてパラサイト・シングルがいるのか。
山田昌弘は、大きい町の郊外に住んでいる若者の数が増加しているのが一つの理由と述べた。そこで、通勤しやすくて、田舎の村や下町の生活より社会圧力が少ない。そして、独立したり、結婚したりすれば、彼らの生活条件が急激な低下を迎えるし(平均:購買力の3分の2を落とす)、それに掃除や洗濯などをするしかなくなるので、親元を離れる動機が少ないだろう。
パラサイト・シングルが結婚し独立しない背景についての考え方を調べると、全体では「経済的に楽な生活を送れるから」がもっとも高く63%、次いで「家事等の身の回りの世話を親がしてくれるから」が60%、「結婚したくても適当な結婚相手がいないから」が44%となっている。
そして、親同居未婚者、つまりパラサイト・シングル、の生活全般の満足度 (満足している+どちらかといえば満足している)をみてみよう。同年代(25~39歳)の既婚者よりは低いものの、未婚単独世帯よりも高くなっている。これを男女別にみると、男性の親同居未婚者の満足度は同年代の未婚単独世帯、既婚者よりも低く、女性では、逆に、そうした世帯よりも高く、満足している人の割合が61%に達している。
この結果について、満足度の高い女性から考えてみよう。まず、既婚者との関係では、結婚することに対する意識でみたように、結婚後における経済面、生活面での負担が現れていると思われる。家事の負担や、自分が自由に使えるお金の額を考えると、結婚するよりも、未婚のままで親と同居しているほうが満足度が高いということかもしれない。そして、単独世帯の場合は、自分で生活費を稼ぎながら生活していかなければならないことを考えると、このような経済面、生活面での負担が少ないことは、未婚単独世帯の人との比較においても理由としてあげられよう。ただ、この場合は、女性に特有のほかの理由も考えられる。いわゆる「友達親子」ともいうべき関係である。
経済面、生活面の負担が少ないことに加え、友達のような関係の母親が近くにいることで、精神的にも満足度が高いことから、このような結果が現れているのではないだろうか。
成人の未婚者の中で20~30歳代になっても親と同居を続けている人が多いことが、未婚化ひいては少子化を促進している要因として取り上げられることがある。
親との同居により、基礎的生活条件の一部を親に依存することにより、自らの所得を自分でできるだけ自由に使えることや、身の回りの雑事等に束縛されずに自由なライフスタイルが取れるなどの利点が考えられ、いわゆるパラサイトシングルと呼ばれる。こうした利点を享受していると、親元を離れて自立しようとする意識が薄れ、結婚、独立した生活という行動をとることが少なくなるのではないかと指摘されている。
若者の意識をみても、「親元を離れて暮らす」ことは青少年の成長や自立のために必要かどうかという問いについて、現在、「必要だと思う」との回答割合が低下している傾向がある。
親と同居すれば生活費はかからない。東京で一人暮らしすれば住居費・光熱費・電話代・雑費で毎月最低10万円は必要だが、それが親と同居していればすべて可処分所得になる。毎月ブランド物のバッグが買えるほどである。半年貯金すればかなり豪勢な海外ブランド買い物ツアーができるだろう。
実際、最近の女性誌にはミラノやパリの買い物地図が必ず付いているし、それを片手にブランドを探す(漁る)日本人OLは多い。
不況とはいえ、若者、特に若い女性の消費力が衰えたように思われないのは、彼女たちがパラサイトだからだ。
これらのパラサイト・シングルの消費価値観をみると、ブランド志向、デザイン志向、有名メーカー志向、流行志向などが高くなっていて、自分で自由に使えるお金の多さが反映されていると言える。このように、パラサイト・シングルの消費価値観は、親と同居していることによる可処分所得の多さを反映し、経済性を考慮しない自由な消費を行うことが特徴である。
彼らがファッションに使うお金が年50万円としても5.6兆円(environ 3 milliards d’euro)の市場である。特に、第二次ベビーブーム世代が25~29歳になるので、この年齢層は、95年の343万人から2000年は434万人に増加する。これは大きい。
しかし、日本の経済学者の 玄田有史 は山田昌弘がパラサイト・シングルの存在する理由を批判する。玄田有史にとって、若い人は今頃でも独立や仕事をしたいだが、経済現況では若者向けのフルタイムが欠けているせいで、フルタイムを得ることは大変である。それは、中高年の人々と若い人の失業率をみると、45~54歳の人は1%を占めりながら、25歳以下の男性の中で1割が失業者である。だから、中高年の人々の仕事や収入を保つ経済的な社会システムで若者にとっては大変な状態である。
では若者に対する調査で、どの結果になろうか。(2002年10月の調査「パラサイトシングル実態調査」)
親との同居について
独身者の9割が「親と同居」、理由は「一人暮らしできるほどのお金がない」が最も多い
独身社会人のうち、親と同居していると回答した人が9割を占める。その理由としては「一人暮らしできるほどのお金がない」(47.8%)、「一人暮らしする理由がない」(47.8%)で最も高くなっており、金銭的な面と、何となくそのまま家にいるというのが実情のようだ。このほか、食生活が安定するから、「一緒に住むのは当然」という意見が多くなっていた。
そして、親に日常生活のためにパラサイト・シングルはお金を出さないと言われているので、家計に入れるお金について人を尋ねた。
自分の給料から家計に生活費を入れている人は58.7%。入れている額は1万~3万円が最も多く(24.6%)、次に3万~5万円(21.0%)となっている。全くお金を入れていない人も全体の41.3%で、給料は貯蓄や自由に使える状況にあることがわかる。
4.パラサイト・シングルは社会にどの影響があるのか。
この社会現象は様々な問題を起こすと言われている。山田昌弘にとって、パラサイト・シングルは少子化や不況に責任がある。なぜなら、彼らは未婚者なので、あまり子供を生んだりしなくて、独立した家庭を持たずに、耐久消費財や住宅供給のためにお金を使わないからだ。また、結婚率が低下していることはパラサイト・シングルが増えていることに原因がある。犯罪の増加さえ、彼らは非難されている。心配している日本人は「我々の息子さんがパラサイト・シングルにならないように救う方法」と題される本がある。
では、具体的な問題をもたらす。人口は年をとると共に世代継続のレベルの下に出生率が減ってきた。
2006年は初めて記録を始めてから(戦争以外に)日本の人口が減少してしまった。Mitsubishi UFC Research and Consulting のデータをみると、日本では結婚式は毎年約12万ほど少なくて、赤ちゃんは毎年26万ほど少なくなる結果がある。
日本は高齢者が多くて、世界の最低出生率であるので、将来税金を払う人が足りないようになるはずだ。それは公的政策の重要な問題になっているだろう。
現在の状態を逆にするため、日本の政府は晩婚や少子化対策で育児の必要な施設や組織を作ろうとしてる。そこで、男女が家庭を築く、つまり結婚したり、子供を生んだりすること、と共に仕事ができるような施設や組織である。
しかし、山田昌弘は「それは先代の女性の欲望ではなかったのか。」と考えている。
最後に、彼は一つの逆説を表す。現代の女性は主婦の生活で、多大なる所得があって、忠実で、家事を手伝う夫と結婚したいと言っている。同時に、男性は文句を言わずに、明るくて、自分の所得で十分だと思って、快活に家事仕事をする妻を求めたいことになったらしい。
では、見たように、このパラサイト・シングルの社会現象は21世紀の日本のチャレンジになって、どうすれば回復できるのか。どの政策を実施したらいいのか。こちらこそ、これを見守るしかないだろうか。

21世紀の電話利用の変化

電話機はベルというイギリス人の発明者によると19世紀の末頃に発明された。20世紀と21世紀にこの発明品と電話利用は非常に変わってきた。それに、1973年携帯電話は出現したが、90年代の半ばから急激に普及している。90年代の半ばから2005にかけて、携帯電話の利用者が三倍以上に増えたが、固定通信は横ばいで、公衆電話利用が少し減ってきた。携帯電話の普及で現在の生活はどのように変わったのだろうか。
さて、最近道を歩くとどこでも携帯電話を利用している人が見えている。元々固定通信と公衆電話だけしかなかった時、家や電話ボックスしかのようなところから電話する事が出来なかったが、今ではどこにいても、何か問題が起きても、連絡がとられるので、とても役に立つだろう。例えば、友達の新しい住む所に行く途中で迷ったら、連絡ができるので、電話するためにもう自宅へ帰る必要はない。問題がない時も、ただ友達や知り合いと通信できる。そして、今の携帯電話の持っている機能は電話する機能だけではなく、メッセージやe-メールも送れるし、写真や動画が撮られる。SMSというメッセージは携帯電話と同時に現象になった。実際、バスや電車に乗れば、熱心にキーを打っている人があちこちいる。ところが、それは正に邪魔にならいのか。
実際、携帯電話やインターネットなどの新しいコミュニケーションツールを使って、交換通信が向上すると言われているが、ヴァーチャル・コミュニケーションが進歩したのにもかかわらず、人と人の現実のコミュニケーションは段々減ってきていると思う。現在、ほとんどの携帯電話でインターネットができるので、更に減って行くと思う。そして、いつでも、どこでも電話の呼び出し音がしたり、大勢の人が例えば路面電車で大きい声で話したりするのは邪魔ではないのか。また、現在ではいつでも人々と連絡できるので、遅れてもいいだと思っている人がいるだろう。それから、買い物する時、「何を買おうかな」と疑っていたら、親や彼女に電話できるので、行く前にリストを書く必要がないと考えている人もいる。ある人は脳の変わりに携帯電話を使うらしいだ。恐らく、電波が健康に悪いそうなので、人の脳を焼いているかも知れない。
このように、携帯電話がいい点と悪い影響がある。段々携帯電話で何もできるようになっているので、移動電話と公衆電話は無くならないのか。最近、インターネットのお蔭で移動通信は大体無料で使えるので、まだなくならいと思うが、公衆電話の数は将来大幅に減少すると思う。では、携帯電話はとても素晴らしい発明品だと思っているが、人々はこれを使い過ぎるも考えているので、人前で使うときは必ずマナーを守って、適切に使うことを習うべきだ。

なぜ学校にいかなければならないのか。

世界中のどこの国でも、学校は基本的に基礎知識を身につける場所である。フランスでは、1882年 のジュール・フェリ法によって小学校の教育が無料になり、 宗教教育が廃止された。そして、1967年 には義務教育が六歳から十六歳までの子供に課せられるようになった。しかし、法律によって義務化されているということ以外に、なぜ学校にいかなければならないのかという問い対する答えはあるのだろうか。
先ず、学校に行く理由は、書く事や読む事、また歴史や地理などのような基礎知識を習得する必要があるからである。そして、 学校教育を通して、ある国の知識や文化、精神的諸価値を世代から世代へ伝えることができる。そのうえ、学校のような集団的な組織で生徒が他の同級生と生活すると、社会の中でどのようにして他の人と一緒に暮らすことができるのかを習うはずだ。即ち、子供達は他の人たちとの接触から多くのことを学ぶだろう。例えば、一人一人の個性を尊重することや、つまり世界の全ての人が平等であること、などである。 他人を一人の人間として認め、自分と異なる人々の外見や考え方を受け入れるならば、差別を避けることができるだろう。それに、色々な科目について多くのことを 学習することもたしかに重要であろうが、自分で考えさせること、つまり自分で自由に自分自身の意見ができることが最も大事だと思う。なお、学校で先生たちが生徒に規律権力もを教え込んだり、社会のルールを守ることも教えたりすると、生徒は安全に社会で成長できるだろう。
ところで、良い教育を受ければ受けるほど、自分のしたい仕事ができるので、学校へきちんと行った方がいいだろう。そうすれば、良い仕事しなくても、社会で働くと、身分に応じて経済成長に貢献するので、自分自身の満足感を得るかも知れない。実際、イギリスの元首相のトニ・ブレアが1997年の選挙前に述べたように、 教育は経済成長や国家の生産性に重要な関係があるので、 不景気を脱して経済成長を遂げるためには教育に資本を投資しなければならない。
たしかに学校へ行くことは必要であるが、教育の場は何も学校に限られているわけではない。現代の学校は全て 教えることができないので、子供の教育を学校にすべて任せるわけにはいかないだろう。もちろん、良い学校ほど 立派な教育を提供できるが、一流の学校であれ、三流の学校であれ、教育制度の改革がいつも問題とされているので、学校だけでは必修事項のすべてを補えない。 実は自分の一般教養や親から 教わることや、自分の経験も同じほど重要な教育だと思う。

平和を実現するためには軍隊が不可欠なのか。

昔から今までも、世界の全ての国は軍隊を持っている。しかし、現在の所軍隊を持つことが本当に必要なのか、また平和を実現するためには軍隊が不可欠なのだろうか。平和を実現するために軍隊が必要なのは少し逆説的な意見ようだが、果たしてそれはただ軍隊を持つための口実だけなのか。
先ず、単純化すれば、世界に全く軍隊がなければ、戦争はできないだろうが、実現的なら各国は他の国を恐れているので軍隊があった方がいいと思われている。即ち、戦争をするつもりがなくても、他の国はどの意図があるのを分からないので、何かにつけて、例えば侵略されたら、自衛するために軍隊があるべきだと思われている。又、戦争を避けるように、つまり平和を実現するために、強化な抑止戦力が必要だという意見がある。そこで、ほとんどの先進国はこのために核兵器を持っている。しかし、戦争の場合は本当に使わないのか、それとも第二次世界大戦の被爆された広島と長崎のように使うのか。私は基本的に軍隊の支持者ではないが、平和を守るために、述べたように軍事力があたらいいと思う。しかし、軍事力があたらいいからと言って、平和や戦争することとは限らない。
実際、戦争や抑止以外に軍隊の機能がある。例えば、地震や洪水のような大惨事になったら、軍事手段を使って、人々を救うことができる。2007年6月、イギリスであった洪水の時、ロアヤール・ネイビー(英国海軍)がヘリコプターなどを使って、沢山の人を助けた。それに、戦争中の国で人道的な支援を齎したり、避難者を守ったりすることができる。とはいえ、軍事の悪影響もある。戦争状態人を殺したり、国を破壊したりすると言うまでもなく、戦争による汚染が環境問題を齎している。例えば、戦争後ずっとたってからも、国民は肉体的や心理的の後遺症に悩んでいる。そして、ある国の軍事力が強すぎたら、軍事クーデターの恐れがあって、軍事独裁になる可能性もあると思う。だから、軍事力は政府の監視下にあるのが不可欠だ。
ところで、平和を実現する方法は一概に軍事力だけではない。実際、様々な国の間に経済交流があって、強い繋がりができると、各国民経済が相互に依存するので、戦争をすることは無益になるだろう。ヨーロッパ連合の場合はそうだった。実際、第二次世界大戦の後ヨーロッパ経済共同体を設立する目的は二つだった。第一、各国の国民経済を最も発展する訳だった。そして、述べた通りに、相互に政治・文化的な交流を行うことで、未来の戦争を避けるようにすることだった。この場合は、交戦すれば、つまり自分の国に対して、戦争すると言う意味だろう。
だから、平和を実現するためには軍隊があるのが大事なのが、軍隊がある以上、外国と交流したり、協力したりすればするほど恒久平和を確立することができると信じている。