lundi 19 mai 2008

安楽死

最近、フランスではシャンタル・セビルという女性の事件がきっかけとなり、安楽死に関するの議論が再開した。不治の病に罹り、おそろしい苦痛を我慢している人を故意に医者に死なせることは安楽死を指示しているという。ベルギーやオランダなどでは可能な行為だが、フランスではまだ禁止されている。では、何故フランスでの安楽死がまだ禁止されているか。安楽死は、果たしてどのような問題をもたらすのか。
安楽死について様々な意見があるのが、およそ賛成意見と反対意見があるだろう。さて、シャンタル・セビルという病人のように病気のせいで顔が極めて醜くなっていたが、死のうした理由はもちろん彼女の醜さではなく、日常的な耐えがたい苦しみであっただろう。このような人々の欲望はただ痛みを止めさせ、立派に死ぬことである。そして、自分の体の苦しみを最も分かる人は病人自身なので、権利の国では苦しんでいる病人が死ぬ欲望があれば、自分で選択すれば、死なせてもらった方が良いと言われている。この観点からすれば、安楽死は殺人も自殺とは異なり、愛の行いをすると主張されている。
しかし、安楽死に反対している人々は安楽死の許可が不可能だと思っている。第一、彼らにとって、安楽死はただ殺人で、法律や宗教に違反であるという。つまり、この権利を与えると、医者は神様のように誰が生きる、誰が死ぬのを決めることに過ぎないと言っている人までいる。そして、病人が明らかに決められない場合は医者が決める必要があるか、一概に客観的に決定できないと言われるため、医者にとっては、複雑な状態である。また、病人にとっては危険な状態だと思っている人もいる。つまり、病気で、自分で生きたいか、死にたいかを決めることができず、遺産を相続するために、医者が安楽死を与えるようにプレッシャーをかけるおそれがあるので、安楽死を合法化することは危険だと思われている。しかし、安楽死についての法を作り出し、きちんと範囲を限定することはできないのか。
ところで、私は安楽死を合法化したらいいと思っている。確かに、そうすれば、反対者の意見の通りに多様な問題をもたらす可能性がある。しかし、フランスという民主的な国として、現在の重病人に対する政府の態度は偽善的で、堪え難いものがある。例えば、クリスティヌ・ブタンというフランスの大臣がシャンタル・セビルの事件について、「彼女が醜いので、死にたい。だが、フランスでは許せないので、我慢するしかないだろう。」と言った。このような非常識で、浅いことを言って、 私はこれを聞いた時、共和国の大臣が発言する言葉とは思えず、 ショックを受けた。これを聞いて、つまりその人はシャンタル・セビルや彼女と同じように苦しんでいる人々の事を全く知らないか、何もしたくないか、と自問してもいいだろう。従って、政治の意志があれば、もちろん厳正で、はっきり限界のある法を規定するのは不可欠だが、ベルギーやオランダのように安楽死を規制することができるだろう。
実際、常に変わっている権利の社会ではこの社会の変化に適応しなくてはならないだろう。社会の変化を迎えることは確かに時間がかかるものだが、死刑制度が廃止されたようにきっと近い将来に安楽死は許可されるようになるはずだ。

少年犯罪

現代、殆どの国では技術、法律や人権などの問題が改善されているかたわら、教育が悪化しているとよく言われている。そして、特に先進諸国で青少年犯罪が増加していると指摘されている。そこで、「核家族化や都市化の進展が、10代の青少年の犯罪数の増加や犯罪の凶悪化の原因である」という意見があるが、本当に関係があるのだろうか。
さて、この見解を教育環境という観点から説明してみれば、様々な理由が見つかるだろう。とりあえず、何故核家族化や都市化の進展が青少年犯罪に影響があるという意見があるのだろうか。例えば田舎と比較すると、都市で育ている子供達の家族は大抵核家族である。つまり、両親と一緒に住んでいる。この家族制度は子供にとって、大家族から育ている子供達と違って、安定の少ない家族制度と言われている。と言えば、都会に住めば、両親が仕事で忙しくて、いなかったら、しつけや社会のルールを自分の家族の他の人からあまり教えてもらわないので、子供達が独習して、また友達と一緒に習うだろう。それに、両親がいる時、仕事のせいで自分の子供と一緒にあまりいないので、悪い事すると叱る訳ではなく、しばしば甘やかし過ぎるだろう。この子供達に規則を小さい頃から守らせないと、目安があまりなく、大きくなると、犯罪を犯してしまう可能性が高くなると思われている。だが、青少年の犯罪数の増加や犯罪の凶悪化は本当に核家族化や都市化の進展に原因がるのか。
ところで、青少年の犯罪数の増加や犯罪の凶悪化は確かであるのか。実際、この数が増えることが本当の犯罪数の増加を意味する訳ではないだろう。即ち、警察から記入された事件の増加だけではないのか。また、前よりこの犯罪が凶悪化したと言う人がいるが、近代のマスコミのおかげで、世界の向こう側に何かが起こると、直ぐこちらへ届くので、前より事件、特に犯罪の事件を意識しながら、マスコミから段々示すようになったと主張している。しかし、現代子供を放任する両親が増加している点では賛成する。前の世代と違って、今の親たちが子供の時彼らの親から厳格な教育を受けたので、自分の子供を甘やかそうとしている両親が段々見えるようになった。例えば、「Super Nanny」のような番組はこのような有様を示すだろう。この番組にいる家族は、ずっと小さい頃から自分の子供を甘やかしておい、八歳の頃になると、この子供達がわがままで、なにも尊重していなく、親がどうしてこうになったのか分からないで、子供をどう育てたら良いのかについて助けてもらう家族ばかりである。このため、家でルールを守らなくても犯罪を犯しがちな子供が増えるのは意外ではないだろう。
そのため、仮に10代の青少年の犯罪数が増加し、犯罪の凶悪化が進むのは核家族化や都市化の進展に限ったことではなく、両親から受けた教育にも原因があるだろう。そして、自分の総ての問題の原因は社会の変化にあるのではなく、人々が自分の責任をとれなくなったかのであろう。

環境問題

世界中には様々な問題が生じている。中東やアフリカの国々には戦争もあるし、貧乏もあるし、病気などもあるので、かなり厳しい生活を送っているだろう。ただ、最近、地球温暖化などのせいで国々のリーダーや一般的に人々は益々環境問題を問題化するようになった。つまり、人類は環境問題と正面から取り組まないとはいけないようになったのだろう。それでは、いかにすれば「地球にやさしく」できるのか。
ビートたけしの著書「みんな自分がわからない」によると、彼は「地球に優しく」の言葉はつまり「人間に一番都合のいい地球をつくる」ために、どうしたらいいかという意味がある。私はこれに賛成する。実際、ただゴミをわけたり、有機農の食物を食べるだけで、自分が「地球に優しくする」と思っている人が多い。しかし、彼らに「自分の消費を下げて」、また「車をできるだけ使わないで」という時、自分の生き方を変えず、「地球に優しく」したいという。つまり、それほど邪魔にならない生き方の変化なら、人々は自分の生き方を変えることは構わないが、不便だったら自発的に変えないはずだ。
しかし、ビートたけしが「自然がそんなによかったら、これほど人が東京に集中して出てこないんじゃないか」という時には賛成できない。人が大きい町に集中するきっかけは田舎よりの高い生活水準ではなく、仕事のせいではないのか。確かに、田舎には嫌な虫などいるが、なぜ田舎に住まないかというと、何よりも田舎にはあまり仕事がないからではないか。そして、これほど自然が良くなければ、田舎に別荘を買いたい人、また田舎に別荘がある人は少ないはずだろうが、実は選択の余地があれば絶対田舎に住むと思っている人も多いではないか。実際、大きいな町では大気、川、道さえ車の排気ガス、工場の化学製品や犬の糞などのせいで汚染され、ネズミもゴキブリもなどいて、そして大きい町はストレスが高い所なので、町は田舎よりいいとは思わない。だから、本当に「地球に優しく」することは、どのようなことなのか。
とりあえず、安楽に暮らしている人はこの心地よい条件を無くしたくないので、生活水準のレベルを維持しながらも、消費の仕方も変えるべきである。即ち、更新エネルギーやクリーンエネルギーを大規模に使用するようにした方が良いだろう。実際、天然資源がなくなりつつあり、そして現代使っている資源が汚染源で、地球温暖化に拍車をかけるので、天然資源が全部なくなるまで待たず、今から更新エネルギーに変えることが必要である。つまり、石油や原子力のような汚染する資源などの使用をやめておき、太陽や風のようなクリーンエネルギーを大規模に使おうとしたらいいと主張する。
そして、「地球にやさしく」するとは個人の責任だけではなく、社会、つまり世界の国々や企業も重責を担っている。確かに、国々や企業は更に発展するにつれ、この責任は重要になるが、このことからと言って、発展途上国や中小企業が何もしなくても良いことには限らない。実際、この問題はとても複雑で、人々が皆一緒に努力しなければ、解決できないだろう。だから、京都議定書のような国際条約は最も大事なのが、このような過程は現代より更に進まないとはいけない。温室効果ガスを減らす具体的な対策を本気で実施することは非常に重要なものである。
「ローマは一日にして成らず」と同じく一日ですべて変えられなく、それはもしかしたら空想的であるが、少しずつ、皆で努力し、力や意志を入れば、未来の子供達のために、また地球の総ての生物のためにいい世界が作れるだろう。

「大人になる」ことの目安

人間の間に見られる様々な違いのうち、一つは年齢の違いである。単純にいうと、一方では子供がいて、また他方では成人がいる。しかし、大人の人はどのような人なのか。また、どのように「大人になる」のか。
法律の点では成年に達すると、大人として見なされる。だが、国々によって、成年齢は変わるだろう。それに、ある国の中にも、成年の概念は歴史を通して変わる場合もある。例えば、現代フランスでは成人の年齢は1974年十八歳だったが、その前は21歳だった。そして、日本なら成年は20歳で、アメリカでは21歳である。法律に従って、成人になるとともに自分のことに対して責任がとれるようになる。即ち、刑法が適用される。しかし、一概に成人になるとは責任感があるという意味ではないだろう。ゆえに、成人と大人は違うのだ。
では、どのように「大人になる」のは決めることができるのか。これについては様々な意見があるだろう。しばしば、思春期が終わってから、大人になると思っている人が多い。特に、子供の時背が高くなったことで、成年に達したら、「大人になった」とよく思われている。例えば、私は子供の時十八歳になると、親の命令に従う必要がなくなったり、好きなように自分の生活を送ることのできたりすることが大人になることだと思っていた。だが、大きくなると、「大人になるということはやはり違う」と考えるようになった。
大人になるということは年齢だけの問題ではない。確かに、普通は年をとると、身体的に成長したり、意見や意識が変わったりするが、年をとるだけで大人になったのは言えない。実際、大人になるということは精神的な過程であると思う。即ち、自分のことばかりだけではなく、他人のことも客観的に考えるようになって、自分の意見ができ、自分のした事に対して責任をとることや責任感の意識があって、また社会に認められることが総て大人になる過程のものであると考えている。例えば、いつも他人に依存して、自分の問題を抱えることもできない、または自分で考えらない40歳の人は確かに成人だが、大人にまだなっていないということだ。つまり、幼稚な40歳の人より、成熟した16歳の人がいるはずだ。そして、完全な大人になるために、自立することは必要であるかも知れない。例えば、まだ親と同居している25歳の人は親から独立していないだろう。それに、パラサイト・シングルのように洗濯してもらったり、掃除してもらったり、甘えている25歳頃の人々はまだ子供のように親に依存しているから、成長もできないし、一人前になる可能性が少なくなる。
では、私はお金以外に親に依存していないで、日常生活を自分で送るので、自立心を感じている。しかし、それで一人前の男、つまり完全な大人になったとは言えるのだろうか。そして、金銭上の独立があっても、「大人になった」とは言えるだろうか。今こそ、私は大人になったとは考えていながら、十年後仕事があって、結婚したら、また子供がいれば、きっと「大人になる」ことの目安が変わるはずだ。つまり、確かに、述べたように、具体的な目安があるのが、大人になることの目安は具体的なものだけではなく、主観的なこともあると思う。

正しい言葉遣い

世界中、総ての国で言語の「正しい言葉遣い」ということがあるだろう。但し、この「正しい言葉遣い」とはきっと人々によって、意味や定義が変わるだろう。つまり、これは一概に言葉の正用という訳ではない。従って、これはどういうことだろうか。
さて、伝統主義者の意見によれば、言葉の正しい使い方は辞書に書いてある定義である。それは、大部分フランス語の保存と純化のためのアカデミー・フランセーズによって、辞書に新しい言葉の記入が決められているということである。つまり、伝統主義者にとって、「正しい言葉遣い」とは辞書の言葉の定義、また文法的に正しい慣用であるだろう。しかし、この見方は少し狭くて、言語の変化や流行語、また古い言葉の慣用の消滅をあまり考慮することなく、いわゆる「正しい言葉遣い」を一生懸命守ろうとしている。
言葉の意味や慣用は明白に年を通じて変化しているだろう。即ち、百年前と比較したら、ずいぶん変わってきた。確かに、周期的にアカデミー・フランセーズなどが新語や新しい言葉の使い方を認め、辞書に記入するが、記入される前には正式な言葉として認められていない。つまり、殆どの流行語や隠語とネット語などは公式の存在はない。しかし、日常の人間関係を通して、それは最も使われている言葉遣いであるだろう。例えば、フランスでの若者はよく「verslen」という逆語で会話する。簡単な例を挙げれば「merci」は「cimer」になり、また警察を親しい言葉で指定する「flic」の言葉は音も形も変わって、一見関係なさそうな「keuf」になる。また、ネット語なら、本当の言葉の書き方が消えて、短くするために音で書こうとする。例えば、フランス語の「salut, tu viens à la maison demain ?」はネット語で「slt, tu vi1 ala mézon 2m1 ?」になったり、英語の「I will see her tonight to talk about your problem」は「I’ll c her 2nite 2 tlk abt ur pb」になったり、字の音でどの言葉かが分かるようになる。
そして、言葉の誤用が正用として定着したもののなかに、外来語がある。確かに、元の意味を持って、使われている外来語もあるが、多くのものは意味
が異なっている。日本人は外来語を使用するのが好きで、色々な国から来ている言葉が日常的に用いられている。例えば、英語の「fork」はカタカナで「フォーク」で、元々の意味を持ち、ドイツ語の「arbeit」の場合は意味が異なる。実際、ドイツ語で「arbeit」は「仕事や働く」と言う意味で、日本語の「アルバイト」は「パートタイム」と言う意味を持つ。
このように、色々な言葉遣いがある以上、この使い方は正しい、これはだめとは 客観的に言えるのか。言語をならうため、また丁寧な言語ができるために規範に従うことはもちろん重要である以上、最も基本的なことは他の人間とコミュニケーションをすることではないのか。相手の気持ちや思想などを理解するのは言語の目標ではないのか。だから、その目的が達成できれば、それは「正しい言葉遣い」というものであるだろう。